マルハラについて
約1年くらい前からよく聞くようになった言葉、マルハラ。
主に若者と年長者のコミュニケーションで発生する問題で、文末に句点があることに対して、若者側が冷たさや威圧感を抱くことを指すらしい。
かく言うわたしも社会的には若者に分類されるし、句点に対して何も感じないわけではない。
しかしながら、冷たさや威圧感というより「表情が読めないことに対する不安」と言ったほうが厳密かもしれない。
それと同時に、年上の方が若者とコミュニケーションを取るときに「これはマルハラにならないか」と案じているという話も聞く。
そう思うと、此方側としても歩み寄らねばという心持ちになる。
元来、わたしは文字でのコミュニケーションを取るときに意識していることがある。
例えば友達と遊ぶ約束をするときも「主語を明確にすること」、「できるだけ思い込みをしないで、些細なことでも確認を取ること」である。
そして、そこに「年上の方とのやりとりは文章で行うこと」が追加された。回答をぽんと打ち返すのでなく、句読点を使って文章を構成する。当たり前のことだけれど、 一文が長くなりすぎていないか、てにをはは適切か……気にかける箇所もそこそこの数ある。
そんなこんなを繰り返しているうちに、こうして絵文字や顔文字、!や?の入っていない文章を書けるくらいの度胸がついた(やっぱりこういう言い切りの形は強く見えるかなという気持ちも多少ある)。
もしかすると、今周りにいる方が優しい人ばかりだから 「表情が読めないことに対する不安」を抱かずに書けるようになったのかもしれない。
ここまで言っておきながら、わたしはこれからも絵文字や顔文字がごちゃついたリプライを送ったり、句点を入れずにぽろぽろ話したりすると思う。それはまぁ、そういうことで。
新年のご挨拶
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
昨年の8月から更新が途絶えていて、わぁ、わたしらしいなという感情
昨年はいろいろな場所へ出かけ、いつになく自分の人生をぎゅいんぎゅいんと回転させていたように思います
作品を見たり聞いたりしてどう思うかはもちろん、なぜそう思うのかを考えたり、自分の感情の壊死していると思っていた部分が意外と生きていることに気づいたりしました
目に見えるもの、見えないものとあるけれど、存在しているものに触れたりぶつかることによって自分のことを知ることもできるのだなぁと思いました
加えて、今までの自分ならやらないようなこと、選ばなかったであろう選択を積極的にしてみることで気づくこともありました
物事をやるか否か迷ったときは「今ここで死んだらそれを後悔するかどうか」を問いかけるようにしていたのですが、そうすると心理的なハードルが下がるというのか、腹を括れるというのか、上手くいかなくてもいいかなと思えるようになりました
今年も昨年の流れを継いで、楽しくゆらゆらしていきたいと思います
あとは、そろそろ生きる諦めがついてきたので、個性についてももうちょっと考えたいかもしれないです 磨けるほどの個がないので、発掘したいなぁとは思っています
そのためには、まず20代女性のフォーマットを己にきっちりと適用するところからかな🤔
自由とバランスを取りながらやっていけたらいいなぁという塩梅です
それでは
主導と主役について
コミュニケーションの難しさには頭を悩ませることが多いわたし
少し前から後輩ちゃんにお仕事のやり方を説明する機会が増えてきた
作業工程数が少なかったり、やったことある他の業務に似たものがあったらそれに寄せて説明したりしていた
けれど、最近作業工程数の多いものや若干複雑なお仕事を説明することも出てきた
となると、わたしがどのように説明するかが大切になってくる
これをやったら次はこれで…と説明するだけだと「何のための作業なのか」「何が完成形なのか」「完成までの道のりのどこに自分がいるか」がわからなくて、そういう「わからないけど覚えなきゃいけない」を抱えつつ物事を進めるのは負荷になるだろうなと思った(自分がそうだったから)
とりあえず簡単なメモを作って、全体を説明してから一つずつ工程をやってもらった わたしにできるのはこれくらい
この経験から気づいたことは、「説明するという自分が主導する形のコミュニケーションにおいても主役は相手である」ということ
説明するという行為に慣れないわたしは、ついつい自分がよどみなく説明することに意識が向いてしまう
もちろん言葉や手順が前後するより綺麗に話せたほうが聞きやすいとは思うけれど、聞きやすさだけが相手の理解を深める要素ではないのかもしれない
少なくとも今のわたしは、流れるようにさらさら話すよりも一つ一つの作業方法の認識をすり合わせたり、相手が困ったり迷ったりした表情をしていないかに注意深くなる必要があると思った
そういう意味での「主役は相手である」ということ、大切にしよーって気持ちになった
最後に「気になるところない?」て一応聞けるようになったのは、ちょっと自分でも成長したかも!て思う
昨日と今日の夕飯
昨日と今日の夕飯 似てるけどちょっと違う
昨日の夕飯/鶏肉とじゃがいもときのこの煮物
本当は炒めものにしようとしてたのに、気まぐれにマッシュルームを入れたらたくさん水分が出て、完全に煮物になってしまった
【材料】
鶏肉 すきなだけ
じゃがいも ✊よりひとまわり小さいくらいのを3つ
マッシュルーム 4つくらい
酒 鍋1周分くらい
みりん 鍋1周分くらい
お砂糖 適量(気持ち多めに) (多分5g以上入れた)
お醤油 鍋半周分くらい
姜葱醤 ティースプーン1杯
①じゃがいもを切って電子レンジにかける(時短)
②姜葱醤を入れて、鶏肉ときのこを炒める
③調味料を入れて、全てに火を通す
おわり 味の感じはほぼ肉じゃが
今日の夕飯/豚バラ肉となすときのこの炒めもの
今日こそは!という気持ちで炒めものにした
でも、肉+野菜+きのこって構成は変わんない
【材料】
豚バラ肉 すきなだけ
なす 1つ
舞茸とマッシュルーム 残ってた分だけ
大葉 すきなだけ刻む
酒、みりん、お砂糖、お醤油 なんとなくの量
無印のねり梅 適量(味見をしながらいい感じにする)
工程もあんまり変わらない、お肉となすときのこたちを炒めて、調味料で味をつける
ただ、今日は大葉の香りと梅の酸味が主役だから、全体的な調味料の量は減らしておく必要があった
途中まで白だしで味つけしようかな?と思っていたけど、なす×油の組み合わせだったから、塩気だけじゃなくて甘さも入れたほうがいいかなって思ってこうした
この2日間でできるようになったのは、酒、みりん、砂糖、醤油の構成で味つけをすること
今までレシピ本とかを見てきちんと分量をはかって、あらかじめ混ぜ合わせていたことが多かったけど、何がいけなかったのか醤油辛くなっちゃったりして、やっぱりわたしは一生めんつゆ大先生に頼って生きていくしかないんだと思ってた
今回完全に目分量で、調味料を順番に入れていったらなんかいい感じにできたので、これからもこの戦略でやっていこうと思う
とにもかくにも、世界が明日終わろうともお醤油は一番最後に入れるということを鉄の掟として生きてゆく
今日の朝ごはん
昨日よりはちょっと早起き
ニッパチ!の朝配信を見てからごそごそ、ぬっそりとベッドを出る
そんな今日の朝ごはんはパン
具材を乗せただけだけど、おしゃれに言ったらオープンサンドとも言えるんじゃないかな
【材料】
カンパーニュみたいな面積の広いパン 2切れ
サラダえび 4尾
ゆでたまご 1つ
明太子 適量
マヨネーズ 適量
胡椒 適量
パンをトーストして、1つにはえびと切ったゆで卵を乗せる マヨネーズと胡椒をかける
もう一つは明太子とマヨネーズを混ぜたのを塗る、おわり
緑の色味が入ったら綺麗だなと思うけど、あんまりそういうことはしない 朝だからね
そういうのは昼とか夜のごはんでやろう
材料の部分書いてて思ったんだけど、 「切れ、尾、つ」って数え方、単位が全部違うね 日本語って複雑〜 そこも魅力
今日の朝ごはん
会社に行く日と同じ時間に起きようとしたけど、やっぱり二度寝しちゃった
お昼ごはんには早いけど、朝ごはんとしてはちょっと遅い
せっかく家に家族がいるんだから、お昼ごはんは一緒に食べたい
そんな今日の朝ごはんというか軽いおかず
【きゅうりと梅と胡麻のあえもの】
材料
きゅうり1本
ねり梅(無印のやつ)
すりごま
あごだし塩
きゅうりを乱切りにして適当に調味料をかける、それだけ 居酒屋のスピードメニューより早いとおもう
梅がどばって出ちゃって酸っぱくなりすぎたから追いすりごまをした 調整がきくのがいいところ
てかそもそもお塩いらんかった気もする どうなんだろうか
日常生活では薄切りのきゅうりに遭遇するほうが多いけど、個人的な好みとしては大きく切ったほうが食べ応えがあってすきかも
お祭りできゅうりの一本漬けが出てるのってこういうことなんかな〜って思った
夢の話2
夢を見ても、その内容を覚えていることってわりかし少ないので書いてみる
推しが結婚した夢を見た
お決まりの【ご報告】の文字とネットニュースのリンクがTLに同じタイミングで流れてきて、でも肝心な“誰が”結婚したのかだけがぼんやりしてわからない。
ネットニュースを開く。推しよりもお相手の情報のほうが先に飛び込んでくる。あざとくて可愛いと話題のきゅるきゅるなグラビアアイドルの方だった。
“推し”が誰かはまだ判然としないものの、現行法から考えると男性なんだなと推測。
もちろんおめでたいなと思ったけれど、それと同時に何となくさみしい気持ちになった。
本当にこの人の人生に関係ないところにいたんだなという感覚。
推しは公に見せる姿としては「社不」とか「生きるのが辛い」といっても、私生活においてはきちんと人間関係を構築している。 それはそのとおりで大切なことだし、生きづらさを抱えていても、それを実際に公にするのは「公にできる重さの共感を得られる範囲」にとどまる。
ただ、わたしは推しの公で見せる姿をプライベート(仕事モードがオフ)のわたしで見ている。その差というかズレ、後ろ盾のない状況は、擦過傷的にも、焦燥感的にもひりひりした。
最後まで誰なのかわからなかったけれど、結局それは重要なことではなくて、今までの推しの要素が混ざった概念的なものなのかもと思った。
実際に言語化しているのは起きている今だけど、寝ながらこんなことを考えていたことは確かで、寝ていたはずなのにとても疲れた。
今日はよく眠れますように。